仁徳天皇と難波高津宮(たかつのみや)

古代の難波

右図は7〜8世紀頃の大阪平野と難波(なにわ)周辺の地形を示している。
難波は、ヤマト王権が西日本各地のみならず、中国王朝や朝鮮諸国との交流
の拠点として重要であることから、4世紀末から5世紀初頭にかけてここに
都を置き、難波高津宮(なにわの・たかつのみや)や前・後期難波宮(なに
わのみや)が上町台地上に営まれてきた。

当時、上町台地の東側には淀川や大和川水系の水が流れ込む河内湖(草香
江)があったが、上町台地の北側から伸びる大きな砂州(天満州)が河内湖
の排水を妨げて洪水や高潮の原因となっていた。
そこでヤマト王権は都の後背値としての河内平野の治水と開発を企図し、
河内湖の水を大阪湾に直接排水するための水路を台地の北側に掘削した。

この「難波の堀江」と呼ばれる水路について『日本書紀』は仁徳紀11年
に「宮の北の野原を掘りて南の水を引きて西の海に入る。因りて、その水を
名付けて堀江という」と記し、「難波の堀江」を仁徳天皇の業績としている。
しかし、実際に堀江の開削が行われたのは5世紀後半以降とする説もあるる。

難波高津宮の位置

7世紀に孝徳天皇が築き、天武天皇が引き継いだ前期難波宮や8世紀初頭、
聖武天皇が造営した後期難波宮は、発掘調査によって大極殿や回廊の跡が発
見され位置が同定された。前・後期難波宮は大阪市中央区の法円坂一帯の、
ほぼ同じ場所にあり、現在は歴史公園として整備されている。
右の俯瞰写真参照(クリックで写真拡大)

これに対して5世紀に造営された仁徳天皇の難波高津宮は、難波宮に比較
して小規模なこともあり、その位置が同定できる痕跡は見つかっていない。
そして従来、下図に示したいくつかの説がとなえられてきた。これらは、日
本書紀や古事記にある仁徳天皇や高津宮に関する記事、延喜式神名帳の記載
内容などをを手がかりにした、上町台地北端説、大阪城内説、大阪城外堀南
縁説、法円坂説などである。さらにこれら以外に、大阪市天王寺区高津町の
高津高校敷地内の明治時代に建立の高津宮跡記念碑がよく知られている。

ところが昭和62年(1987)から翌年にかけて、難波宮の内裏西側に当た
る大阪歴史博物館・NHK大阪放送局の敷地内の調査で、5世紀後半の大規
模な高床式倉庫群跡が発見された。この倉庫群は東西方向に並び南北に2列、
合計16棟にも達し、法円坂遺跡と名付けられた。
この倉庫群は、その規模や構造の規則性から国家の管理下にあったと想定
され、現在では仁徳天皇の時代に造営された難波高津宮の遺構の一部だとす
る考え方が有力になっている。なお、歴史博物館等のあるビルの敷地には、
巨大な高床式倉庫が復元されている。  


                                                     
図1 古代(7〜8世紀)の難波と河内平野
図8 古代(7〜8世紀)の難波周辺の道路
写真1 難波宮跡周辺の俯瞰:法円坂周辺を南方から望む
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図2 上町台地の地形と高津宮の位置に関する諸説:各説とも難波堀江に近い台地北部
図3 上町台地北部の現状と高津宮の位置に関する諸説:法円坂説が有力とされる
写真2 復元された巨大な高床式倉庫:床面積約90平方メートル
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図4 高床式倉庫群の想像図:右上が難波の堀江
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図5 難波津の賑わいの想像図:下方が難波の堀江
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茨田(まむた)堤     
『日本書紀』仁徳天皇11年10月の記事に、「天皇、北の河のこみ(水害)
を防がむとして茨田堤を築く(天皇は洪水や高潮を防ぐことを目的として、
淀川に茨田堤を築いた)」との記述がある。
新たに造営された難波高津宮は、後背地である河内平野の治水対策のため、
河内湖に流入する淀川分流の流路安定を目的に、堤防を築造することとした。
堤防は、当時の淀川分流路に沿って現在の寝屋川市太間(たいま)から大阪
市旭区に至る20km以上にわたって築かれており、当時のこの地方の地名を
とって「茨田堤」と呼ばれるようになった。
 茨田堤の痕跡は、河内平野北部を流れる古川沿いにわずか1箇所、京阪電
車大和田駅の東北にある堤根神社の本殿の裏にに現存している。
このような長大な堤防を築くには、高度な築造技術を要し、相当な困難を
伴ったであろうと考えられる。『古事記』には、「秦人(はだびと)を役(えだ
)ちて茨田堤及び茨田屯倉(まむたのみやけ)を作れり」という記述がある。
秦人とは渡来人のことで、渡来人によって大陸の優れた土木技術が用いられ、
完成することができたのだろう。
しかし、茨田堤だけでは河内平野の治水に不十分であったため、茨田堤の
築造と同時期に難波堀江の開削事業も実施されており、この両者は日本最初
の大規模な土木事業であったとされている。
図6 茨田(まむた)堤の推定位置:AおよびBの堤を合わせ総延長約20km
写真3 現存する唯一の茨田堤跡:堤根神社の裏側にある(大阪府門真市宮野町)
図7 茨田堤跡がある堤根神社の位置(京阪電車大和田駅北口)
参考文献
写真・図面引用先
写真1 難波宮跡周辺の俯瞰:http://www.nmguide.jp/outline/page1.php なにわまナビガイド 大阪不町台地を訪れる
写真2 復元された巨大な高床式倉庫:http://www.bell.jp/pancho/k_diary-13/2014_11_15.htm 財団法人大阪市文化財協会 - 邪馬台国大研究
写真3 現存する唯一の茨田堤跡:http://blog.hangame.co.jp/D919147851/article/38802626/ 茨田堤と鎮守・堤根神社

図 1 古代の難波と河内平野 :http://toyoreki.way-nifty.com/blog/2012/12/post-a0f3.html 豊中歴史同好会
図 2 上町台地の地形と高津宮の位置 :http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-805.html 十三のいま昔を歩こう 不町台地の地形変遷
図 3 上町台地北部の現状と高津宮の位置 :http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-805.html 十三のいま昔を歩こう 不町台地の地形変遷
図 4 高床式倉庫群の想像図 :http://www.bell.jp/pancho/k_diary-13/2014_11_15.htm 前期難波宮
図 5 難波津の賑わ :http://blog.livedoor.jp/myacyouen-hitorigoto/archives/cat_1178941.html エナガ先生の講義メモ 高津宮
図 6 茨田堤の推定位置 :http://morikuri.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-3f07.html 授業報告:まち歩き】堤防を歩き
図 8 古代の道路 :http://ikomashinwa.cocolog-nifty.com/ikomanoshinwa/2015/07/post-30e5.html 生駒の神話 河内湖(深野池)・河内潟・河内湾

高津宮参考文献
http://ja.wikipedia.org/wiki/ 難波の堀江

http://blog.livedoor.jp/myacyouen-hitorigoto/archives/cat_1178941.html エナガ先生の講義メモ 高津宮

http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2014/06/3-7ff1.html 古事記が解いた古代史  謎の河内(3)

https://www.yodogawa.kkr.mlit.go.jp/know/rekisi/kakawar.html 淀川河川事務所|淀川の成り立ちと人とのかかわり

http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage405.htm 大阪再発見 高津宮跡

http://ikomashinwa.cocolog-nifty.com/ikomanoshinwa/2015/07/post-30e5.html 生駒の神話 河内湖(深野池)・河内潟・河内湾

http://www.bell.jp/pancho/k_diary-13/2014_11_15.htm 財団法人大阪市文化財協会 - 邪馬台国大研究

茨田堤参考文献
https://ja.wikipedia.org/wiki/茨田堤

http://toyoreki.way-nifty.com/blog/2012/12/post-a0f3.html 豊中歴史同好会

http://www.city.neyagawa.osaka.jp/organization_list/kyoiku_shakaikyoiku/bunkasport/bunkazai/namesagasu/1378095715828.html 寝屋川市ホームページ

http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-614.html 十三のいま昔を歩こう : 京街道を歩く・太間・茨田堤の碑


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