有間皇子の悲劇を象徴的に示す二つの系図



左側の系図を見てみよう。有間皇子は孝徳天皇の子であり、当然後継者であった。
しかし、有間皇子は皇后・間人皇女の子ではなく、後宮・小足姫の子であった。

これは、皇后側の中大兄皇子や大海人皇子にとって、好ましいことではなかっただろう。
それが、孝徳天皇の悲運や有間皇子の悲劇を生んだ背景である。

右側の系図でもう少し時代を遡ると、悲劇の背景がさらにはっきり見えて来る。

7世紀勢力を拡大した蘇我氏は、舒明天皇崩御の折、後継者が幼いこと理由に皇后の宝皇女を
天皇に推し皇極天皇とする一方、蘇我蝦夷が大臣、その子・入鹿が政務を担当し宮廷を支配した。
さらに入鹿は、天皇中心主義を唱える目障りな存在・斑鳩の山背大兄王一家を抹殺した。

次いで入鹿は、蘇我氏の血を引く古人大兄皇子を次期天皇にもくろんだが、
危機感を持った中大兄皇子は皇極4年、中臣鎌足と図り、飛鳥の大極殿での儀礼式典中
皇極天皇の眼前で入鹿を斬殺、翌日蝦夷は自害、蘇我氏の本流は滅亡した。

衝撃を受けた皇極天皇は弟の軽皇子に譲位、軽皇子は孝徳天皇として即位した。
身の危険を感じた古人大兄皇子は出家した上吉野の山中に隠遁したが、
中大兄皇子は謀反の疑いがあるとして兵を差し向け、古人大兄皇子を処刑させた。

一方孝徳天皇は、中大兄皇子の妹・間人皇女を皇后に迎えた上で難波長柄豊碕に遷宮し
新しい時代を切り開こうとしたがはかばかしい進展がなく、不満を募らせた中大兄皇子は
孝徳8年、皇后を始め多くの人々を引き連れて飛鳥に引き上げてしまったのである。

孝徳天皇は煩悶のあまり1年後に、妃の小足媛とその間に生まれた有間皇子を残し崩御した。
中大兄皇子は皇極天皇を再び斉明天皇として祭り上げ、自らが宮廷の実権を握った。
この瞬間に、まだ幼い有間皇子の悲劇的な運命が定まったと言えるのである。