志貴皇子:その系図と生涯

志貴皇子:天智再生へのつなぎ役
近江大津宮に遷都した天智天皇には、幼児期まに死亡した子を除き、
大友、川島、志貴の3人の皇子がいたが、長兄の大友皇子は壬申の乱
(672)で大海人皇子(天武天皇)に敗れて自殺、次兄の川島皇子は30
歳代で早世し、壬申の乱の折14歳前後の少年だった志貴皇子のみが、
その後の天武天皇系の時代を生き抜いた。

志貴皇子は皇位継承とは全く無縁な境遇にあって、中央から与えられ
る職務の処理に専念する一方、和歌等文化の道に生き、『万葉集』に6首
の秀歌を残した。晩年、二品(四階級ある親王位階の第二位)を授かり、
716年、六十前に没した。

志貴皇子の子・白壁王もまた、父親ゆずりの賢明さと細心さを持ち備え、
天武系の皇子が政争に巻き込まれて次々に倒れて行く中で、災いを避け
るため酒におぼれた振りをしたと「続日本紀」は記録する。

そしてその白壁王が、何と62歳となった宝亀元年(770)皇位継承者に
擁立され 光仁天皇として即位した。ここに志貴皇子没後50有余年にして
天智系天皇が復活し、現在の皇室につながっているのである。
皇位に一切執着せず清らかな人生を終えた志貴皇子の系統が、現在
まで長く続くとは、何という歴史の皮肉だろう。


志貴皇子:生誕から終焉まで
天智には3人の皇子がいたが、その母はすべて釆女である。志貴皇子
の母も、北陸の豪族・越道君(こしのみちのきみ)の娘で、釆女であった。
母の身分が低いと皇子といえども皇位継承順位は低く、本来は天智天皇
の第一後継者は天智の弟・大海人皇子とされていた。

しかし天智天皇は、我が子可愛さの余り志貴皇子の長兄に当たる大友
皇子を強引に皇太子とし、皇位継承者とした。そして、大友皇子は天智天
皇の死後、弘文天皇として即位したが、本来皇位を継ぐ筈だったもう一人
の皇太子、大海人皇子(天武天皇)の武装蜂起による『壬申の乱』を招き、
援軍の少ない大友皇子の敗死し、天智の近江朝は滅亡した。
 
志貴皇子の生誕年は不詳で、659年前後と推定される。明日香にあった
斉明天皇の「後岡本宮」が生誕の地だが、天智天皇の大津宮遷都で、少
年時代を琵琶湖のほとりで送った。
そして、人生を一変させた673年の壬申の乱。時代は天智から天武の
世となり、明日香に戻った志貴皇子の微妙な立場が想像される。

天武8年5月に、天武天皇は皇后(後の持統天皇)と6人の皇子を伴い
吉野に行幸する。壬申の乱の起点となったこの思い出の地で、皇子たち
に将来の協力を誓わせたのである。
この時、天智系の川島皇子と志貴皇子も参加したという。その7年後
の大津皇子の謀反と賜死の伏線となるこの儀式を、若いとはいえ聡明な
志貴皇子がどのように受けとめたのかは想像に難くない。
その後は政治的な動きや派手な振る舞いは控え、地味ながら重要な
役を着実にこなして、時の主流派に貢献したという印象がある。自分の
立場をよくわきまえて、賢明に時流に対処していった人であった。

都が藤原京から平城京に移った後、志貴皇子の離宮が奈良市街の東
の高円(たかまど)山麓にあったという。高円山の周辺はムササビも多く
棲むほど自然豊かな地域で、貴族たちの野遊びの場でもあったらしく、
万葉集にもしばしば登場する。
高円山の麓にある白毫(びゃくごう)寺は五色椿と萩の花で名高いが、
志貴皇子離宮跡の伝承地としても知られ、笠金村(かさ の かなむら)が
皇子を悼んだ歌の碑が境内に建っている。
高円の野辺の秋萩いたずらに咲きか散るらむ見る人なくに(巻1─231)
また、志貴皇子にもムササビをの目撃に触発されたかのような、
むささびは木末求むとあしひきの山の猟夫にあひにけるかも(巻3−267)
という歌があり、権力をめざしては没落してゆく世相への寓意が込められ
ているという見方もある。

     志貴皇子は、晩年には二品を授かり、霊亀2年(716)に死去した。
60年に満たない生涯であったが、和歌等文化の道に生き、『万葉集』に
6首の秀歌を残すなど、濃密な人生であったにちがいない。

高円山のすそ野を東へ越えると田原の里だ。白毫寺からは約5km離れた
静かな里に皇子は葬られた。皇子は後に春日宮天皇と追尊され、田原西陵
として宮内庁の管理のもとにある。茶畑の中の小さな円墳であるが、よく
手入れがゆきとどいている。
田原西陵の約2km東に田原東陵があり、光仁天皇(白壁王)が眠る。
図1 志貴皇子の系図(クリックで詳細図)

図2  若草山から南に連なる山々

写真1  高円山西麓にある白毫寺:伝、志貴皇子離宮跡(クリックで拡大)

写真2  高円山:若草山から望む(クリックで拡大)

図3  田原西陵の位置(クリックで拡大)

写真3  田原西陵:志貴皇子の陵墓(クリックで拡大)

図4  田原東陵の位置(クリックで拡大)

写真4  田原東陵:光仁天皇の陵墓(クリックで拡大)

引用参照文献
写真・図面引用先
写真1 高円山西麓にある白毫寺:http://hana25.com/?page_id=235 関西花の寺二十五 第18番 白毫寺
写真2 高円山:若草山から望む:http://blowinthewind.net/manyo/manyo-takamado.htm 万葉の旅 高円山
写真3 田原西陵:http://s.webry.info/sp/47687940.at.webry.info/201505/article_3.html 陵墓探訪記(奈良
写真4 田原東陵:http://s.webry.info/sp/47687940.at.webry.info/201505/article_3.html 陵墓探訪記(奈良)
図 1 志貴皇子の系図 :旧ふきのとうドットコムより引用、一部追加修飾
図 2 若草山から南に連なる山々 :http://www.tokai-walk.jp/course_guide/course15-1.html 東海道自然歩道 天理市から高円山まで
図 3 田原西陵の位 :Yahooマップを加工修飾
図 4 原東陵の位置 :Yahooマップを加工修飾

本文参照文献

http://ja.wikipedia.org/wiki/志貴皇子

http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm026.html 天武の時代を生きた天智の皇子

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sikino2.html 志貴皇子 千人万首

http://blowinthewind.net/manyo/manyo-takamado.htm 万葉の旅 高円山

https://ja.wikipedia.org/wiki/光仁天皇



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