あゆち潟と桜田       

あゆち潟について
図1に示すように、古代の名古屋市西南地域は
海の中にあった。当時の海の名前は「あゆち潟」
といい、その海域は笠寺台地の東から鳴海台地の
西南端にまで広がっていた。

「あゆち」という地名が最初に表れたのは『日
本書紀』で、「尾張国年魚市郡熱田」という記述
が見られる。
あゆちの表記は『日本書紀』では「年魚市・
吾湯市」であったが、『和名抄』では「愛智」、
『霊異記』では「阿育智」と様々に変化し、その
後「あゆち」は「愛知」となったといわれる。

なお、平安時代以降は「あゆち潟」という
呼びかたは消え、鳴海潟という呼び方になった。


桜田について
武市黒人の歌にある「桜田」は、桜村の田畑と
いうような意味で、図2に示すように、名古屋市
南区の名鉄桜駅東方の元桜田町一帯だったとされ
ている。桜駅付近はかって松巨嶋と呼ばれた海辺
の台地で、縄文時代の貝塚や遺跡が集中、その後
これらの上に村落が形成され、桜田八幡社や桜神
明社、白毫寺が建立された。

そして、この台地の東側を流れる天白川沿いが
干拓され田畑や湿地帯となったのが桜田で、鶴な
どの営巣地になっていたものと想像される。当時
は歌に詠まれるほどに美しい風景であったに違い
ないが、現在は往年の面影はない。


あゆち潟・桜田伝承地
万葉時代のあゆち潟は、写真1に示すように広大
な干潟であったの思われるが、今は埋め立てによる
港湾化が進み、名港トリトンと呼ばれる巨大な橋が
対岸に通じる。
わずかに、白毫寺境内にあゆち潟景勝碑が、また
桜田八幡境内に桜田景勝碑が残されているが、無論
周囲に景勝はおろか、海も川も見当たらない。

図1古代の名古屋付近:(クリックで拡大)


 
図2あゆち潟と桜田の位置:薄青色は縄文、濃青色は古墳時代の海(クリックで拡大)


図3縄文・弥生時代の古墳・遺跡分布:(クリックで拡大)


 
写真1万葉時代のあゆち潟イメージ:(クリックで拡大)


写真2 現在のあゆち潟:対岸へ通じる自動車橋「名港トリトン」(クリックで拡大)


写真3白毫寺山門と境内のあゆち潟景勝碑(クリックで拡大)


写真4桜田八幡社拝殿と境内の桜田景勝碑(クリックで拡大)






参考文献
写真・図面引用先
写真1 あゆち潟イメージ:旧ふきのとうドットコム
写真2 現在のあゆち潟:http://hadley.exblog.jp/9580759/ 名古屋港と名港トリトン
写真3 白毫寺山門:http://achikochitazusaete.web.fc2.com/manyoukochi/ aichi/ayuchi.html 尾張名所図会を巡る
あゆち潟景勝碑:http://http://achikochitazusaete.web.fc2.com/manyoukochi/aichi/ayuchi.html 万葉の旅
写真4 桜田八幡社拝殿:http://blog.goo.ne.jp/nagoya-jinjya/e/585365b6a07b77b675ff79813978ae2d 八幡社(桜田八幡社)
桜田景勝碑:http://achikochitazusaete.web.fc2.com/manyoukochi/aichi/ayuchi.html 万葉の旅
図 1 あゆち潟と桜田の位置 :旧ふきのとうドットコム
図 2 あゆち潟と桜田の位置 :GoogleMapマップを加工
図 3 縄文・弥生の遺跡分布 :http://homepage3.nifty.com/kanozyuku/history/mukasi1.htm
縄文・弥生時代の道徳 年魚市潟景勝の地




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