山上憶良人:その生涯とゆかりの地

憶良の故郷は、大和か近江か

山上憶良は、斉明6年(660)頃に生まれ、天平5年(733)頃に70台半ばで
亡くなったと考えられているが、生誕の地については二つの説がある。

一つは通説になっている大和説で、憶良は、古代の皇別氏族・春日氏の流
れをくむ粟田氏の支族にあたる山上氏の出自とされる。山上の名称は大和国
添上郡山辺郷の地名に由来し、山辺が山於(やまのえ)とも表記され、これが
山上という名称に転じたとする。

この添上郡は奈良県の北部に位置し、現在は殆どが奈良市に編入されて
いるが、山辺郷という地名は現存しない。従って当時の位置は同定できない
が、歴史的事実や記録から、奈良市法華寺町付近と比定されている。

これに対して万葉学者の中西進は、憶良の父は白村江の戦い(663)で滅亡
した百済から渡来した、憶仁(おくにん)という医師で、近江国甲賀郡の山直郷
に住み着いたことから山上氏を称するようになり、さらに近江まで勢力範囲を広
げていた粟田氏に次第に従属し同族化していったとする。そして憶仁は、近江
の天智天皇、近江朝滅亡後は飛鳥の天武朝の侍医を務めたという。

憶良自身は、白村江の戦いの直前の660年、百済の都・扶余で生まれたが、
渡来時の憶良はまだ数えの4歳なので、近江国が事実上の故郷だといえよう。

なお、この近江国の甲賀郡山直郷という場所は、現在の滋賀県甲賀市水口
町北部の「山」地区付近にあたる。

憶良が大和の氏族出身か、百済からの帰化人か、についての決定的な情報
はない。しかし、憶良ほどの博識には不釣り合いな出世の遅さや、彼の貧者や
弱者を注視した異色の社会派的歌風などから、憶良は名門の出自ではなく、
百済帰化人であるような気がしてならない。

遣唐使の一員として唐へ
山上憶良の名が歴史上に登場するのは、続日本紀大宝元年(701)年の条である。その年の正月、
文武天皇は30年ぶりの遣唐使派遣を決定した。憶良はその随員の末席に連なり、「無位山於億良」
とその名を記されている。そして憶良は、この時すでに四十一歳であった。
無名の憶良が何故遣唐使の一行に加えられたかは定かではないが、遣唐大使を務めた粟田真人
が、漢語に精通した同族の憶良を引き立てたとする説がある。

この年は暴風雨のため遣唐使一行は出航できなかったが、九月に文武天皇の紀伊国行幸があり、
宮廷歌人の長意吉麻呂などと同行した憶良は、磐代(いわしろ)の浜の結松を見、有間皇子を悼む
歌を残している。
鳥となり あはれ呼びつつ 見らめども 人こそ知らね 松は知るらむ(2-145)
非業の死を遂げた有間皇子が、鳥となって結び松を見に来るのだ、と哀れみこめて詠っている。

翌大宝二年(702)、粟田真人を大使とする第7次遣唐使一行は日本を発ち、十月長安に入る。
遣唐使としての建前からか、憶良は出発前に少録(正八位上相当)という役人に取り立てられいた。

在唐時代、憶良は長安だけでなく、則天武后がいる洛陽や龍門石窟にも足を伸ばし、中国仏教
文化の精華を全身で受けとめた。また、各地で知り合った数多くの知識人たちの、儒仏道や道教
への深い理解を踏まえて語られる宗教観や人生観に強い影響を受けたといわれる。

そして大宝四年頃、帰国を前にして、憶良は本郷(くに)を憶う歌を詠んだ。
いざ子ども 早く日本(やまと)へ大伴の 御津の浜松 待ち恋ひぬらむ(1-63)
子ども、とは皆の者の意。御津とは、遣唐使が出発した摂津国の難波津のことである。

伯耆国守に
慶雲元年(704)または慶雲四年(707)、憶良は日本に帰国した。その後唐での業績が
が認められたのか正六位下に昇格、さらに和銅七年(714)正月、従五位下に叙され、朝廷
の下級官人としての地位を得、霊亀二年(716)、伯耆国守に任命された。時に憶良57歳、
晩年になってようやく得たこの地位に感慨もひとしおであったに違いない。

しかし、憶良が国司として派遣され頃の伯耆の役所は、後の国庁とは異なって不入岡
遺跡付近にあり、掘立柱形式であったらしい。冬は寒く、けっして豊かとはいえない土地柄
で、憶良は5年の任期中にリウマチを悪化させたという。

そして、伯耆時代の5年間に憶良が万葉に残した歌は一つもない。しかし、後に詠んだ
「貧窮問答歌」など、はこの地に住んで知った貧しい人々の生活の実態が、背景の一つに
なっているのではないか、と推測されている。

養老五年(721)前後に、憶良は都に呼び戻され、東宮(後の聖武天皇)に侍講すること
となった。侍講とは、退廷後の君主に学問を講じる名誉職であり、憶良は前途に明るい栄
達の光を見たに違いない。

なおこの頃憶良は、文武天皇以前の歌を歌作経緯含めて集積した『類聚歌林』を編纂
したといわれているが、その一部が万葉集に引用されるのみで全体は現存しない。
図1山上憶良生の故郷(ふるさと)マップ:近江説と大和説(赤字クリックで各拡大マップ)


写真1遣唐使船の再現模型(上海万博展示)
図2伯耆国府跡周辺マップ(クリックで拡大)
写真2伯耆国府跡付近の俯瞰(クリックで拡大)
写真3伯耆国庁跡(クリックで拡大)
写真4倉吉白壁土蔵群(国指定)(クリックで拡大)
筑前国守として太宰府へ

神亀二年(725)聖武天皇が即位すると、憶良は侍講の職を解かれ、同三年(726)
、筑前国守に任命され太宰府に下向した。左遷ではなかったろうが、すでに六十七
歳という高齢でもあり、朝廷での栄達を望む憶良は失望を覚えたことだろう。

しかし、この筑前国守時代は、憶良の創作意欲がもっとも高まった時期であり、彼の
代表作は大部分がこの筑前時代に残されている。
それは恐らく、神亀四年(727)大伴旅人が大宰府の師(そち、長官)として太宰府
に赴任してきたことも背景にあると思われる。互いに漢文や詩歌など文学に造詣が深
い憶良と旅人との間には、自ずと交流関係が生まれ、互いの創作意欲を刺激しあい、
周囲の人々も加わったことから、後にいう「筑紫歌壇」が形成されていった。とくに有名
なのが旅人邸で行われた梅花の宴で、万葉集巻五に32首が残されている。
この梅花の宴については、別章:大友旅人を参照していただくとし、ここでは憶良
がその時詠んだ秀歌を記しおくに止めるたい。
春さればまづ 咲く屋戸の梅の花 独り見つつや 春日暮らさむ(万5-818)

嘉摩三部作

筑前国守時代、憶良は地方長官として民衆の生活にじかに接しようとして、管内
各地を視察で訪れた。庶民の困窮や苦しみを目の当たりにして心を痛めた憶良は、
その独特の儒仏精神に根ざした庶民目線の歌を多く詠み、世に訴えようした。その
ような憶良精神の結実の一つが有名な「嘉摩三部作」である。

福岡県のほぼ中央、太宰府の西方に位置する嘉麻市の稲築町鴨生地区は、西に
遠賀川、東に山田川が流れる風光明媚な土地で、万葉時代は筑前国嘉摩郡役所
が置かれていた。
神亀5年(728年)7月下旬、巡察のため嘉摩郡役所に滞在した憶良は、この地で
「嘉摩三部作」として知られる歌々を選定し編纂した。
それは、1. 或情(まどえるこころ)を反(かえ)さしむる歌、2. 子等を思う歌、および、
3. 世間(よのなか)の住(とどみ)難きを哀しぶる歌、からなり、いずれも漢文の序と、
長歌および反歌、という形式に統一されている。そして、その中で最も有名な歌が、
子等を思う歌で、漢文序に次ぐ長歌は、
「瓜食めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆ
いづくより来りしものそ
目交にもとなかかりて安眠しなさぬ」(5-802)
であり、その反歌が冒頭に掲げた「銀も 金も玉も・・」である。

嘉麻市には、この三部作が編纂されたことを記念して、鴨生公園や稲築公園のほか
随所に憶良の歌碑が建立されている。とくに有名なのが、嘉摩郡役所跡に近い地にに
ある金丸邸内の鴨生憶良苑で、自然風の庭園内に記念碑や歌碑が散在する。なお、
鴨生憶良苑の創設者は金丸与志郎、命名者は桑原武夫とのこと。
図3福岡県北部マップ
図4嘉摩市鴨生地区ミクロマップ(クリックで拡大)
写真5嘉麻市の北の入口:後藤寺線下鴨生駅(クリックで拡大)
写真6嘉麻市の憶良歌碑案内図(クリックで拡大)
写真7鴨生憶良苑の記念碑(クリックで拡大)
帰京、そして終焉

大友旅人が太宰府を去った2年後、天平4年(732年)憶良は筑前国守の任を終えて帰京した。
すでに73歳であったが創作意欲は衰えず、同年冬「貧窮問答歌」を詠んでいる。

その長歌部分は漢文で書かれたもので、苛酷な収税にあえぐ庶民の貧窮ぶりを
訴える内容になっている。そして反歌の一つでこう締めくくっている。
世間(よのなか)を憂しと恥(やさ)しと思へども 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば(5-893)

翌天平5年(733)6月には、「老身重病年を経て辛苦(くる)しみ、また児等を思ふ歌」を詠み、
序文として長大な漢文の「沈痾自哀文」を付している。沈痾(ちんあ)とは長患いのことで、憶良は
伯耆国守の頃からリューマチに悩み、その痛みに生涯苦しんだようである。

「沈痾自哀文」の中で、憶良は自虐的に次のように述べている。

「ひとり考えてみるに、朝夕に山や野に狩猟して暮らす者ですら殺生の罪を受けることなく生活が
でき、昼夜に川や海に魚を釣る者ですら幸せに世を暮らしている。
まして、私は生まれて今に至るまで、自ら善を行う志を持ち、一度も罪悪を犯したことがない。
仏、法、僧の三宝を礼拝し、日々勤めに励み、百の神を敬重し、一夜として慎まなかった日はない。
ああ恥ずかしいことよ、私は何の罪を犯して、このように重い病を得たのだろう。初めて重い病
を得てより今日まで、もう年月もひさしい。今年七十四歳にして、頭髪はすでに白く、体力は衰え
ている。ただに年が老いただけにあらず、この病がある。」

何とも悲痛な限りだが、にもかかわらず病に耐え、弱者への思いやりを絶やさず詠い続けた憶良
の強靭な精神力とゆるぎない人間愛に敬服の念を抱かざるを得ない。

そして、この「沈痾自哀文」が書かれた頃、藤原八束が、河辺東人を憶良の見舞いに遣わせた、
という記述が万葉集に残されているが、それ以降、憶良の和歌作品が残されていないことから、程
なく病死しものと推察される。享年74歳であった。
  注記:藤原八束はのち藤原北家の祖となった藤原真楯のことで、当時は20歳前後。
    藤原真楯は『万葉集』に8首、河辺東人は1首を残していることから、憶良とは歌を
    通じた交流、または憶良が和歌や漢文の師の関係があったあったと推察される。


憶良が万葉集に残した歌は八十首前後あるが、そのほとんどが、筑前の守となった六十歳台
半ば以降の作品であり、またその多くが困窮した生活を送る庶民の目線に立つ歌であった。
大歌人であると同時に、当時としては異色の社会派歌人であった。
図5平城京と主要寺院分布:憶良の生誕地は法華町あたりというが、終焉の地は?
引用参照文献
写真・図面引用先
写真1 遣唐使船の再現模型:https://ja.wikipedia.org/wiki/遣唐使
写真2 伯耆国府跡付近の俯瞰:http://www.ncn-k.net/koyasiro/HISTORY/01_kokutyouato.htm 伯耆国府跡 国庁跡
写真3 伯耆国庁跡:http://ytinbk.blog.fc2.com/blog-entry-210.html 大黒将軍党! 伯耆国府
写真4 倉吉白壁土蔵群:http://www.uraken.net/sozai/34tottori/kabegami.html 転載フリー写真集(鳥取県) 倉吉市打吹玉川伝統的建造物群保存地区
写真5 後藤寺線下鴨生駅:http://www.homemate-research-station.com/dtl/46000000000000007783/ ホームメイト鉄道(電車)リサーチ JR後藤寺線下鴨生駅
写真6 嘉麻市の憶良歌碑案内図:http://www.e-kama.net/area/【ゆこう!探そう!】いろんな石碑/
写真7 鴨生憶良苑の記念碑:http://blowinthewind.net/manyo/manyo-kama.htm 万葉の旅 嘉摩

図 1 山上憶良生の故郷 :GoogleMap、一部追加修飾
図 2 伯耆国府跡周辺マップ:GoogleMap、一部追加修飾l
図 3 福岡県北部マップ :http://www.its-mo.com/search/area/40/ 福岡県 地図|ゼンリン地図
図 4 嘉摩市鴨生地区ミクロマップ:GoogleMap、一部追加修飾
図 5 平城京と主要寺院分布 :旧ふきのとうドットコム


本文参照文献

http://manyo.hix05.com/okura/okura.hinkyu.html 山上億良:その生涯と貧窮問答歌 - 万葉集を読む

https://ja.wikipedia.org/wiki/山上憶良

http://www.epochtimes.jp/jp/2007/10/html/d32248.html 【乾坤に生きる 】唐都長安を見た日本人・山上憶良 A

http://www.adnet.jp/nikkei/shiseki/contents/097.html 伯耆国府跡(鳥取県) - 日本の史跡101選-出かけよう日本の記憶をたどる旅へ 伯耆国府跡

http://ameblo.jp/hatsuyoshi-shimamura/entry-11774158448.html 「万葉歌人」山上憶良(3完)|嶋村初吉のブログ

地域の文化資源をさがす - よかネット 稲築町鴨生 山上憶良物語

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin15/okuratom.html 憶良と亡命の民ーー嘉摩郡三部作を読む 富永長三

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/okura2.html 山上憶良 やまのうえのおくら 斉明六-天平五頃(660-733?) 略伝

http://manyo.hix05.com/okura/okura.kowoomou.html 山上憶良:子を思う歌(万葉集を読む)

http://manyou.plabot.michikusa.jp/manyousyu5_chinajiaino_bun.html 万葉集入門 沈痾自哀(ちんあじあい)の文  山上憶良

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/okura2.html 山上憶良 千人万首


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