大伴旅人の大和、藤原京から平城京へ

藤原京から平城京へ
藤原京から平城京への遷都については、707年(慶雲4年)に審議が始まり、708年(和銅元年)には
元明天皇により遷都の詔が出された。しかし、710年(和銅3年)3月10日 (旧暦)に遷都された時は、
内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており、寺院や邸宅などは、その後山城国の
長岡京に遷都するまでの80年の間に、段階的に造営されていったと考えられている。
その間、740年(天平12年)から数年の間は、恭仁京や難波京への遷都によって平城京は一時的に
放棄されるが、745年(平17年)には、再び平城京に遷都され、その後784年(延暦3年)、長岡京に
遷都されるまで政治の中心地であった。なお、山城国遷都の後は南都(なんと)と呼ばれた。

平城京のモデルは言うまでもなく唐の長安であり、その大きさは東西約4.3km、南北約4.8kmの
長方形で、さらに東側に、東西約1.6km、南北約2.1kmの外京をがあった。総面積は約2,500ヘクタ
ールで、藤原京とほぼ同じだが、根本的に異なるのは、藤原京では大内裏を条坊の中心に置いたのに
対し、平城京では条坊の北端に置いた点で、条坊南端の羅城門から大内裏の朱雀門まで直線的に伸
びるメインストリートの朱雀大路は、幅約74mという雄大なものであった。
そして、この朱雀大路の西側を右京、東側を左京とよび、碁盤の目のように整然と区画された市街
地には10万人以上の人が暮らしていたといわれる。 

また、平城京は寺院建築は非常に多いのも特徴であった。京内寺院の主要なものは、大安寺、薬師
寺、興福寺、元興寺で、これらは藤原京から遷都に際して移転されたものである。そして東大寺は東京
極大路に接した京域の東外にあり、聖武天皇によって天平勝宝4年(752年)に創建、西大寺は右京の
北方に位置し、称徳天皇により天平神護元年(765年)に創建された。これらに法隆寺を加えて南都の
七大寺と称し、他に海龍王寺、法華寺、唐招提寺、菅原寺、新薬師寺、紀寺、西隆寺などがあった。

大伴邸はどこに
大伴旅人は天智天皇4年(665年)に生まれ天平3年(731年)に死去しているから、人生の前半は飛
鳥時代の藤原京、後半は奈良時代の平城京で暮らしたことになる。藤原京での大伴家の邸宅がどこに
あったかは よくわからないが、平城遷都後、旅人の父・大伴安麻呂は奈良の佐保(現、奈良市法蓮町)
に新邸を営み「佐保大納言」と呼ばれた。以後、旅人やその子・家持、さらに大伴坂上郎女も佐保に
住まいを持ったといわれる。
佐保は、佐保山と呼ばれた丘陵の南麓の佐保川に面した自然豊かな地で、当時多くの貴族
の邸宅があったというが、現在は公園や健康施設などに利用され、当時の面影はない。

                          
図1大和国・藤原京と平城京の位置マップ(クリックで大和国マップ拡大)
図2平城京の位置マップ(クリックで平城京マップ拡大)
図3平城京想像図:朱雀門(すざくもん)から南へ幅74メートルの大路(クリックで部分拡大)
図4平城朱雀門の再現図(クリックで拡大)
図5平城大極殿の再現図(クリックで拡大)
引用参照文献
写真・図面引用先

図 1 大和国・藤原京と平城京の位置マップ:Google地形マップと旧ふきのとうドットコム引用図面の複合
図 2 平城京の位置マップ:Google地形マップと旧ふきのとうドットコム引用図面の複合
図 3 平城京想像図 :http://urabe-fas.com/pct_silk_heijokyo.html シルクロード幻視行_平城京(奈良)
図 4 平城朱雀門の再現図 :https://ja.wikipedia.org/wiki/朱雀門   朱雀門(すざくもん))
図 5 平城大極殿の再現図 :http://blog.goo.ne.jp/junko1803/e/5502f9dc6f2c6997bd6d2d1b9df079c5 歴史探訪 奈良市


本文参照文献

http://ja.wikipedia.org/wiki/平城京

http://www.sahoyamasalon.com/ohtomoshi.html 佐保の大伴氏

https://ja.wikipedia.org/wiki/大伴旅人

http://www.kkr.mlit.go.jp/asuka/heijo/histry/what.html 国土交通省 国営平城宮跡歴史公園 平城京とは?



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