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万葉集と大伴家持(編集中)         

 大伴家持は万葉集の最終的な編者とされる。その根拠にはいろいろあろうが、何と言っても
万葉集に収められた家持の歌の圧倒的な多さが全てを物語っているだろう。        
 万葉集全二十巻、4500余首のうち、家持の歌は長歌・短歌などを合わせて計473首が
収められており、特に巻十七〜十九は大半が家持の歌で構成された私家集の観がある。さらに
巻二十には家持が収集した防人の歌が収められ、その最後を自身の歌で締めくくっている。 
                                      
 8世紀の半ば、藤原氏と橘氏の確執の渦中、衰運傾向の大伴家を若干14歳で背負って立つ
こととなった家持の生涯は、波乱と苦難に満ちたものであった。 どちらかと言えば橘氏との
意思疎通を保ちながらも控えめな行動をとった家持ではあったが、結局は橘諸兄や藤原中万呂
の政争や陰謀に巻き込まれ、人生の後半が大きく狂ってしまったと言える。        
 しかし、持ち前の鋭い感受性や中国文化への精通を背景とした家持の歌は、彼が敬愛した柿
本人麻呂や山部赤人など、万葉のおおらかな精神を受け継ぐと同時に繊細優美な抒情性に富み、
古今集など万葉集以降の王朝和歌に大きな影響を与えた。                 
 もとより家持は、庶民の上に立ち支配する高級官吏であり、貴族社会の人間である。しかし、
家持は、熟年の時代に接した防人たちの歌に心を打たれ、自らも防人の苦しみや悲嘆の心を歌に
している。このような庶民生活への理解が自身の不遇や苦悩とあいまって、万葉集編纂の原動力
になったのではないだろうか。                             
 以下、そのような大伴家持の歌のいくつかを、年代や歌番を追いながら拾ってみたい。   


 まず、制作年の知られる家持の歌の中で最も早い時期の歌。家持十九歳の秀作である。   
 秋雑歌。「大伴家持秋歌四首」                            
          久堅の 雨間(あまま)も置かず雲隠り 鳴きそ去(ゆ)くなる 早田(わさだ)雁が音(八-1566)
  雲隠り 鳴くなる雁の去きて居む 秋田の穂立ち 繁くし思ほゆ(八-1567)        
  雨ごもり 心欝(いぶ)せみ出で見れば 春日(かすが)の山は 色づきにけり(八-1568)   
  雨晴れて 清く照りたる此の月夜 又更にして 雲なたなびき(八-1569)         
 

  大伴家持は多情多感の人、紀女郎(きのいらつめ)や笠郎女(かさのいらつめ)などとの相聞歌
が万葉集に収められているが、次はのち家持の正妻になる大伴坂上大嬢(おおともの さかのうえ
の おおいらつめ、家持の叔母 坂上郎女の長女)に送った二十歳過ぎの歌。         
 坂上大嬢に贈る歌三首                                 
撫子が その花にもが朝な朝な 手に取り持ちて 恋ひぬ日なけむ(三-408)      
夢の逢ひは 苦しかりけり覚(おどろ)きて 掻き探れども 手に触れねば(四-741)   
夜のほどろ 吾が出でて来れば我妹子(わぎもこ)が 思へりしくし 面影に見ゆ(四-754)


 天平12年(740)12月、聖武天皇は恭仁宮(くにのみや 現 京都府木津川市加茂町)に入り、
遷都を宣言した。恭仁宮、足掛け5年の短い期間の都であったが、国分寺・国分尼寺建立の詔、
大仏造立の詔、墾田永年私財法の発布など、歴史的には重要な時期になった。        
 遷都の年23歳の家持は、天皇の警護をむねとする舎人(とねり)として恭仁宮に単身赴任し
新しい都への讃歌を詠っている。                            
 内舎人(うどねり)大伴家持、久邇京を讃える歌一首                  
今造る 久邇の都は山川の さやけき見れば うべ知らすらし(六-1037)


 天平18年(746)年6月、29歳の家持は橘諸兄に引き立てによって越中守に遷任され、7月、越中
に向け旅立つ。万葉集で確認できる大伴家持の27年間で473首の歌歴のうち、以後5年間の越中在
任中に半数近い223首の歌を詠み、また万葉集編纂の構想も進めたといわれる。        
 越中国府は、別ページの図にあるように 二上山(ふたがみやま)を背にし、 射水川(いみずが
わ)に臨む高台にあり、奈呉海(なごのうみ) 三島野(みしまの) 石瀬野(いわせの)を隔てて
立山連峰を望むことができた。また北西には渋谿(しぶたに)の崎や布勢(ふせ)の水海など変化
に富む遊覧の地があった。                                
 家持は この越中の四季折々の風物に触発され、越中三賦と呼ばれる「二上山の賦」(十七-398
5-3987)、「布勢水海に遊覧の賦」(十七-3991・3992)、「立山の賦」(十七-4000-4002)など
の意欲的な長歌を制作した。さらに天平20年(748)からは、出挙(すいこ 農民へ稲の種もみや金
銭を貸し付け、利息とともに返還させる制度)のため越中国内を巡行し各地で歌を詠んだ。この頃
から、異郷の地の風土に接した新鮮な感動を伝える歌がしばしば見られ、従来の万葉にはない独自
の歌風が育って行ったと言われている。                          
 「二上山の賦」返歌                                  
渋谿の 崎の荒磯(ありそ)に寄する波 いやしくしくに いにしへ思ほゆ(十七-3986)     
      玉くしげ 二上山に 鳴く鳥の 声の恋しき 時は来にけり(十七-3987)            
 「布勢水海に遊覧の賦」返歌                              
布勢の海の 沖つ白波あり通ひ いや年のはに 見つつ偲はむ(十七-3992)           
 「立山の賦」返歌                                   
立山(たちやま)に 降り置ける雪を常夏に 見れども飽かず 神(かむ)からならし(十七-4001)
 そのほかの歌                                      
水門(みなと)風 さむく吹くらし奈呉の江に 嬬(つま)呼び交はし鶴(たづ)さはに鳴く(十七-4018)
越の海の 信濃の浜をゆき暮らし 長き春日も 忘れて思へや(十七-4020)           


 天平勝宝元年(749)暮れ、京に残して来た妻 坂上大嬢が越中に来て共に暮らすようになった。
家持は、妻との暮らしの中で感情の充実を感じたのか、しばらく低迷していた創作意欲が蘇り、年
が明けると12首のを詠んだ。その中から代表的な2首。歌にある美人はもちろん坂上大嬢。  
 春の苑の桃李の花を眺矚て作める歌二首                         
春の苑(その) 紅にほふ桃の花 下照る道に 出で立つ美人(をとめ)(十七-4139)
吾が園の 李(すもも)の花か庭に降る はだれのいまだ 残りたるかも(十七-4140)


 天平勝宝三年(751)七月、時に34歳の家持は 少納言に遷任され帰京する。しかし、政治の実権
はすでに光明皇太后と藤原仲麻呂にほぼ掌握されており、橘諸兄に近い立場の家持は政治的に不遇
な境遇に身を置くことになった。家持は越中守在任中の天平勝宝元年(749)に従五位に昇進してい
るが、帰京後の昇進はきわめて遅く、正五位下に進むまで21年を要し、晩年の天応元年(781)によ
うやく従三位、中納言の役職にたどりついている。                     
 帰京2年後、天平勝宝五年(753)二月の所謂「春愁三首」に詠われた孤独感は、当時の家持の境
涯が背景にあると言える。しかしこれらの歌は、自然の中に人間の感情が投影させた清新な詩情が
高く評価されていて、家持のの最高傑作と位置づける人が多い。               
 二十三日、興に依けてよめる歌二首                           
春の野に 霞たなびきうら悲し この夕影に 鴬鳴くも(十九-4290)         
我が屋戸の 五十笹群(いささむら)竹吹く風の 音のかそけき この夕へかも(十九-4291)
 二十五日、よめる歌一首                                
うらうらに 照れる春日(はるひ)に雲雀あがり 心悲しも 独りし思へば(十九-4292) 


 天平勝宝7年(755)2月、大伴家持は防人交替の事務のため難波に派遣された。東国から徴集さ
れた防人たちは、難波で検校を受けたのち難波津から船で筑紫へ送られるのだが、東国の民謡や歌
に関心を持っていた家持は、各国のの防人役人に命じて防人たちに歌を進上させた。 このように
して、100余首に及ぶ防人の歌が万葉集の末尾に異彩を放つこととなった。          
 そして、防人歌に心を打たれた家持は、自らも防人たちの悲しみや苦しみを主題とした長短歌を
次々と創作し、防人たちの歌とともに万葉集に収めたのである。以下はその中から4首。    
 「防人の悲別の心を痛む歌」返歌                            
大夫の 靫(ゆき)取り負ひて出でて行けば 別れを惜しみ 嘆きけむ妻(二十-4332)  
鶏が鳴く 東壮士(あづまをとこ)の妻別れ 悲しくありけむ 年の緒長み(二十-4333) 
 「防人の悲別の情を陳ぶる歌」返歌                           
家人の 斎(いは)へにかあらむ平(たいら)けく 船出はしぬと 親に申さね(二十-4409)
  み空行く 雲も使と人は言へど 家づと遣(や)らむ たづき知らずも(二十-4410)   
 

 天平宝字二年(758)六月、41歳の家持は因幡守に遷任され、因幡国府に赴任した。体の良い左遷
せあった。同年八月、恵美押勝(藤原仲麻呂)の後援のもと淳仁天皇が即位。翌宝字三年正月、因幡
国庁での宴で家持は祝賀の歌を詠んだ。これが制作年の明記された家持最後の歌であり、万葉集の
巻末歌となった。                                    
 三年春正月一日に、因幡国に庁して賜ふ宴の歌一首                    
新しき 年のはじめの初春の けふふる雪の いやしけ 吉事(よごと) (二十-4516)


 天平宝字六年(762)正月、45歳の家持は信部大輔に遷任され帰京したが、翌年藤原宿奈(藤原仲
麻呂)暗殺計画に連座したとして、現職解任のうえ 京外追放に処せられた。まもなくこの処分は解
かれたが、同八年(764)正月には薩摩守に左遷された。薩摩守解任後、筑紫に下ったが、神護景雲
四年(770)六月、帰京。同年八月、称徳天皇が崩じ光仁天皇即位と共に正五位下に昇叙されたのは
、実に二十一年ぶりの叙位であった。以後は聖武朝以来の旧臣として重んぜられ要職を歴任、官位
も急速に進み、宝亀九年(778)には正四位下に昇り、天応元年(781)四月、従三位。翌年の光仁上
皇崩御後、謀反への連座の罪を問われ現任を解かれたが、程なく冤罪と判明し復任。 同年六月、
65歳で陸奥按察使鎮守将軍を兼任し、蝦夷の反乱で揺れていた陸奥に赴任。延暦二年(783)七月、
陸奥にあって中納言に任ぜられ、翌年二月、持節征東将軍を兼ねる。その後も陸奥で蝦夷征討計画
に従事していたと思われるが、桓武天皇の長岡遷都の翌年に当たる延暦四年(785)八月二十八日、
68歳で死去した。終焉の地は陸奥の多賀城とされる。しかし、家持 波乱の人生はまだ続く。  


 家持の葬儀もまだ終わらない延暦四年九月二十二日の夜陰、桓武天皇の信任厚い「造長岡宮使」
藤原種継が矢を射掛けられ、翌日死去した。長岡京建設の総責任者とも言うべき種継の暗殺に桓武
天皇は激怒し、犯人捜査の陣頭指揮をとった。その結果、大伴氏の若者らによる暗殺事件であるこ
とが分かり、尋問の結果、事件の首謀者は1ヶ月前に多賀城で死去した大伴氏の最長老、家持とい
うことになり、生前に遡って全ての名誉が剥奪された。                   
 家持が最終的に編纂に関わった萬葉集も封印され、朝廷に没収されたが、皮肉なことに、これに
よって萬葉集が確実に後世へ遺される結果になった。                    
 万葉集の封印が解かれたのは二十年後、家持の名誉が回復された大同元年(806)平城天皇即位
の年であった。その後、万葉集』の成立が平城天皇の御時とされた由縁である。        

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 追記その1:『小倉百人一首』の家持の歌                        
 小倉百人一首に、「かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける:大伴家持」と
いう歌があり、人口に膾炙している。この歌は『新古今集』にも家持の歌として収められており、
不作者詳の『家持集』という私撰和歌集にも載っている。しかし、大変有名で優れた歌であるにも
かかわらず、万葉集には選ばれていない。41歳で万葉集最後の歌を詠んだ家持が、以後の27年の間
のどこかでこの歌を詠んだのか、それとも別人の歌なのかは不明である。           



 追記その2:軍歌『海ゆかば』の作詞者は家持?                     
 戦前派や戦中派の人はよくご存知だと思うが、第2次大戦中に「海行かば水浸く屍、山行かば草
生す屍・・・」という曲が戦意高揚のため歌われ、演奏されていた。大伴家持の詩をもとに信時潔
が作曲したというこになっている。しかし、事実だろうか?                 
 大伴家持の生きた時代は、藤原氏と橘氏の権力闘争や疫病の流行による要人の相次ぐ死亡など、
政治的動揺の時代であった。聖武天皇はこのような事態を憂え、救いを仏教に求める一方で、本来
朝廷警護の内の兵であることを職掌としてきた大伴、佐伯の二氏に対し、天皇への忠誠をあらため
て訴える宣命を発した。                                 
 この時家持は越中にあったが、使者を通じて宣命を知り、また贈位を賜った。感激した家持は、
一遍の長編の歌を作り、天皇の期待に応えた。そして、長歌の中で家持は「海行かば水浸(みづ)
く屍(かばね)山行かば草生(む)す屍王の辺にこそ死なめのどには死なじ」と詠っている。  
 しかし、この文言は家持が新たに創作したものではなく、もともと大伴、佐伯両氏の間に伝わる
戦闘歌謡の一節だったのである。現に聖武天皇自体が宣命の中で、大伴佐伯両氏を鼓舞するため、
この文言を引用しているのである。そして家持も、天皇の言葉を受け止める意味で、この文言を繰
り返したに過ぎないのだ。従って『海ゆかば』の作詞者が家持だという言い方は誤りである。  

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<参考文献> http://ja.wikipedia.org/wiki/大伴家持                  
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http://www.asahi-net.or.jp/<波形>sg2h-ymst/birth.htm           
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http://sanpomichi114.web.fc2.com/tagajyou3.html 多賀城人物伝 歴史年表 大伴家持
http://achikochitazusaete.web.fc2.com/manyoukochi/miyagi/tagajo.html 万葉の旅 多賀城跡
http://achikochitazusaete.web.fc2.com/manyoukochi/kagosima/satuma.html 万葉の旅 薩摩守大伴宿禰家持
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/volume.html たのしい万葉集


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